僕の生い立ち~高専時代

アイヌの村から離れ

イランカラプテ!キミです!

前回の記事僕の生い立ち~中学生の続きです。

複雑な精神状態だった中学生でしたが学業は成績優秀な生徒でした。入学から卒業までずっと学年2位(40人しかいませんが)の成績で苫小牧工業高等専門学校、機械工学科に進学しました。高専は全国的にはマイナーだと思いますが、国立の学校で5年制。工学がメインで卒業後の進学先、就職先も良い学校です。平取では成績が良ければ毎年選択肢に挙がる学校です。平取からの進学先の候補は苫小牧、札幌周辺の学校です。成績が良ければ苫小牧東高校か、札幌の東西南北の公立高校が選択肢でした。公立校には学区外からだと入学枠が5%などと限られているので入学は狭き門です。しかし高専は学区が設定されていないので純粋にテストの点数で勝負できるので田舎の人にはチャンスです。僕の実力だと札幌の東西南北は入学できなかったでしょう。

晴れて高専生になった僕は寮で生活し二風谷を離れることになりました。寮生活は先輩の指導が厳しく当時は嫌でしたが、今思えばその時に精神を相当鍛えられました。上級生からの理不尽な行いに耐えることで同級生同士仲良くなるのに時間はかかりませんでした。

誰も僕の出自を気にしない世界に来て心が相当軽くなっていました。同級生の内数人は僕の父や祖父の事を新聞で見たよと言ってきましたが、アイヌだからといじめられたり、からかわれたりせずに生活できました。

高専3年生の時、5月の連休中に祖父が亡くなり、新聞やテレビで扱われました。通夜と葬儀は亡くなってから数日後に行うことに決まったので、連休明け学校に戻ると平取町の萱野という事で同級生から関係を聞かれ、その時に僕の出自を知った人が多くいたと思います。僕は積極的に自らアイヌである事を明かしはしませんでしたが、聞かれた事に嘘はつきませんでした。それでも今までと変わらず、また根掘り葉掘り聞いてくるでもない友人たちに心の中でありがたい気持ちでいました。

4年生の中頃から卒業後の進路を皆が考え始めました。当時の苫小牧高専生の進路は半分が就職、半分が進学といったところです。進学は上位75%ぐらいまでで、下の方でも地方国立大学、数年に1人は東大東工大、上位10%ぐらいまでは北大に編入していました。就職は超有名企業の子会社が多かったと思います。学校が推薦してくれるので就職活動は簡単で、行きたい会社があれば先生に相談。成績と照らし合わせて問題なければ推薦されて、会社が旅費を出してくれて試験・面接で大抵の学生は合格していました。

僕は大体真ん中ぐらいの成績だったので地方の国立大学に編入するか、就職するかを迷っていました。高専から大学に進学した場合、大部分の学生は大学院に進学し修士課程を修了します。僕の選択肢は20歳で給料は安いけど働き始めるか、24歳まで勉強して良い給料で働き始めるかの2択でした。

当時の僕は上昇志向が強く働くなら社長になりたいし、お金もいっぱい稼ぎたいと思っていました。いい暮らしをしたいし豪邸も建てたいなんて考えていました。

出した結論は高専卒で小さな会社で働いて、1.数年後に社会人として東大編入後、修士を取って大企業に入社or、2.数年後に独立or、3.その会社で社長まで出世、のどれかというプランでした。

高専卒で大企業に勤めると大抵は工場のライン管理の仕事というイメージでした。有名大学の学部卒や修士卒と張り合っての出世争いは正直厳しいと考えていました。チャンスがあるのは中小企業だと思い、僕が考える機械屋の醍醐味である設計ができる設計事務所に入社することにしました。

次の記事⇒僕の半生~サラリーマン時代

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