文化復興と伝承、発展

イランカラプテ!キミです!

あと一週間ほどで今年も終わり、新年がすぐそこまで近づいてきました。親戚が集まり、ごちそうが用意される正月はアイヌにとっても特別なもので、正月にはアイヌ式の先祖供養が行われていました。(いまでもしている家庭はあります。)

 その昔、アイヌ社会では葬式の後に墓参りをするという風習はなく、おいしいものや珍しいもののある正月とお盆に先祖の供養をした。

~中略~

一月二日からはアイヌ風の先祖供養がそれぞれの家でおこなわれ、私の父のアレアイヌは神主役、その日はシンヌラッパ(先祖供養)なので坊さん役といったほうがいいのかもしれない。

~中略~

右のようなお祈りをしたあとに、家の中では必ず女性でも男性でも老人一人だけを残し、大方の人がそれぞれ、杯を持つ人、囲炉裏の中から熾き火を入れ物に入れて持つ人、お膳を持つ人、イナウを持つ人という風に戸口から出ていく。

前もって用意してあるトマ(ござ)の上へ並んで座り、持って出てきた火の神の分身である熾き火をおき、そのそばへチェホカケ(上から下へ削ったイナウ)一本を立ててから、お膳に山盛りに持ってきた供物を一つずつおく。

そのときにいう言葉は、これは誰それが好きであった食べ物であったので、と亡くなった者たちの名をいいながら、ミカンであれば皮をむき、お菓子や餅を次々と並べる。そして、持って出てきた杯の酒をト゜キパスイの先につけてはチェホカケの頭のほうへつけ、このしぐさをひとりずつおこなうので、祭壇のそばで三〇分くらいは座っていたものであった。

そのまわりに私ども子どもとイヌが持っていて、大人が家へ入ったあとにイヌは肉とか魚を、子どもたちはおいしそうなお菓子を取って食べるが、ときには刻みタバコがついていて、少しちがう味がした。

~中略~

このように、私が物心ついた昭和五年頃から昭和五〇年代までは、正月の大切な行動としてシンヌラッパをしていたものであったが、現在ではこれをやっている家は数えるくらいになってしまった。

私自身の家庭のことをいうと、祖母てかってが亡くなったのが昭和二〇年一月、父アレアイヌが昭和三一年二月で、これらは完全にアイヌの風習の葬式であった。

母が亡くなったのが昭和四五年一二月であったが、これは法華宗であったので位牌があり、昔のやり方と両方での供養をしており、複雑な心境である。

萱野茂著 アイヌ歳時記 二風谷の暮らしと心 PP.018-029

この文章は僕の祖父の著書からで、祖父自身の実体験からの内容です。

数十年前までは私の先祖は、正月にシンヌラッパ(アイヌ式の先祖供養)を行っていました。正月に家族でシンヌラッパをしなくなって久しいですが、今年の夏ごろ僕の大叔父(萱野茂の弟)が、「久しぶりにシンヌラッパをしたい」と僕に言ってきました。大叔父の望みを叶えたいという思いと、僕自身の「アイヌの伝統を復興させたい」との思いから、快諾して来年1月にシンヌラッパを行うことになりました。

文化の復興とは

上に書いた事は僕の親族に起きた、またはこれから起きる文化復興の実例だと思います。大叔父は自身の体験を下の世代に伝えていきたいと考え、そしてただ一度で終わらせないために、僕のような若い世代に実践させ、これからもその文化を残していこうとしています。

僕の曽祖父(祖父の父)は家庭でアイヌ語を(流暢に使えるが)使わなかったようです。それでも、祖父は(祖父の)祖母や地域の老人からアイヌ語を習得し、(祖父の)父や地域の男性から儀式の作法や彫刻などを習得しました。

なぜ曽祖父はアイヌ語を子供たちに教えなかったかというと、下の世代に差別や貧困の連鎖をつなげないようにと考えたからではないでしょうか。学校教育が始まり、日本語の使用を義務化された第一世代の曽祖父の年代は大きな葛藤の中生きていた人たちでしょう。伝統的な生活が禁止され、強制された生活様式では貧しくなるばかり、そのような事を子孫に受け継がせたくなかったんだと思います。

それでも受け継がれた伝統文化は(細々とではありますが)今でも生きていて、息を吹き返す時を待っています。

誰のための文化復興か

文化復興はアイヌ自身の内から発生する欲求によるものでなくてはならないと思います。アイヌ社会の外から「復興しろ」と強制されるものでもなければ、やりたくないのにイヤイヤやる事でもないと思います。

そして、先祖が生み出し、受け継いだ自分たちの伝統文化は好き勝手に変えられるものでもありません。

 その昔は一軒残らずこのやり方でやるので、先祖供養のはしごとなり、神主役の都合によって二日から始まっても二〇日頃まではどこかの家で供養祭をしていたのである。しかし、明治二五年、二風谷小学校が創立されてやってきた日本人の先生がその様子を見て、一軒一軒同じことをするのは無駄なことだ、供物を持ち寄り合同でやりましょう、ということになった。

それに賛同したアイヌたちが、明治の終わりか大正の初めの正月に小学校へ供物を持って集まり、合同のシンヌラッパをやった。ところが、その夜に一人のアイヌが沙流川のほうへ下りて凍死した。

それを見た二風谷アイヌは顔を見合わせ、これは先祖のところへ供物が届かなかったのかもしれない、やっぱり先祖供養は自分の家でしたほうがいいということになり、合同シンヌラッパはこの一回で取りやめになってしまった。

萱野茂著 アイヌ歳時記 二風谷の暮らしと心 PP.027-028

これは祖父が上の世代から伝え聞いた話で、本の中には亡くなってしまった人と誰が教えてくれたことかも書いてあります。

文化復興の方法

90年代の終わりに「アイヌ文化振興法」ができ、アイヌ文化の普及・啓発や伝承の為に「財団」が設立されました。今では道内外、財団に関わっている人や団体はたくさんあると思います。ですが、財団が必ずしもいい方法だとは僕は思っていません。

文化には当然地域差があり、同じ地域でも家庭による差も当然あるでしょう。なので一番の方法は自分の親、祖父母、曽祖父母や地域の古老から直接受け継ぐということだと思います。人間関係が面倒だからと、教材にまとめてある情報が一番正しいと盲信することは、もしかしたら、自分には全然関係のない地域や家系の伝統を受け継ぐことになるかもしれません。

ただし、自身の先祖からの伝承が途絶えてしまっているアイヌにとっては、財団は重要な情報源だと思います。

文化の発展・現代社会への利用

昨今何かとアイヌ文様のようなデザインやアイヌ語の利用など、現代社会にアイヌの伝統文化の要素が取り入れられることが増えてきたように感じます。

僕がこのことに関して思うのは、(1)誰がやっているのか(アイヌか非アイヌか)と、(2)ベースはしっかりとしているのかということです。

(1)、(2)のどちらも納得できる人が現代風にアレンジして利用する事には賛成ですが、どちらか一方でも欠けているとその作品は認めたくないと思います。

(1)についてのアイヌか非アイヌかというのは血縁だけの問題ではないく、「アイヌ社会(コミュニティ)の一員か」という事が重要だと思います。アイヌの血統でなくともアイヌ社会の一員である場合もありますし、アイヌの血統であってもアイヌ社会の一員でない場合もあります。

(2)については伝統的な作品をしっかりと作る事が出来る(理解している)上で発展させているのか、それともベースもなく好き勝手にやっているのかという事です。

実際にあった話ですが、僕の祖母に縫物を教えてもらった後に、自分で作った作品を見てくれと見せられたものが、死人を埋葬するときに持たせる物の模様だったことがあるようです。その模様をどのような場面で使うかなども理解していないと、わかる人が見るとゾッとするような作品になる事もあります。

アレンジや進化・発展は良いことだと思いますが、この2条件を満たしていない場合は、アイヌ社会や、地域の老人等の理解や合意を得てから活動した方が良いでしょう。アイヌとして活動していても地域社会が認めているとは限りません。

そして現代風のものを新しく作ろうとするのを急ぎすぎるのは良くないことだと思っています。マオリがマオリ語復興を行った時に、新しく入ってきたモノや概念をマオリ語でどう作るかという事になったようです。そのときは各地域のマオリ語話者が集まり新語を作ったりもしたようですが、結局多くの借用語を使ったそうです。現代になり、マオリ語話者が増えると借用語を使う事を嫌い、借用語もマオリ語であらわそうという流れになったようです。

この話はとても重要なことだと思いました。アイヌ語がわかる数人で新語を作る事に躍起になるよりも、まずは(1)借用語を使い和者数を増やす。(2)和者数が増えると自然と借用語の使用を拒む。という2段階があるという事です。

言葉は使う人数の大小によって変化するものです。日本語でも本来は誤用であっても、大人数が使用すればそれは新しい言葉・用法になります。少人数が一生懸命考えたところで多数派が使わなければ何の意味もないわけです。

まとめ(僕の考え)

・文化復興は内なる欲求からはじめる。

・自身の家系や自身の地域社会の文化を一番大切にする。

・伝統文化を進化、発展させる場合には、ベースをしっかりと持つ。ベースが不十分な場合は地域社会や古老の合意を得る。

・進化、発展は焦らなくても多くの人が関わるようになると自然と発生するものである。みんなで作り上げたものが新しい文化になる。

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