道内外のアイヌ関連施設(白老)

[:ja]イランカラプテ!キミです!

関連記事⇒道内外のアイヌ関連施設(阿寒湖畔)

僕は二風谷以外の地域の事を細かく説明できるほどの知識も経験もないので、実際に僕が見たものをメインに書いていきます。このシリーズに書かれている事がその地域のすべてではないし、地元の人は違う意見を持っているかもしれません。それを前提に読んでください。これからの記事がそれぞれの地域を知る機会や、観光客増加につながればうれしいと思います。

当ブログ 「道内外のアイヌ関連施設(阿寒)」冒頭の説明より

白老(しらおい)

胆振(いぶり)管内にある白老町は苫小牧(とまこまい)市と登別市の間にある町です。古くからアイヌ文化を観光資源として活用した先駆け的地域です。シラオイという地名はアイヌ語のシラウオイ(アブ(虻)の多い所)に由来するといわれています。

しらおいポロトコタン アイヌ民族博物館

白老でアイヌ文化に触れられる場所といえば「しらおいポロトコタン アイヌ民族博物館」でしょう。ポロト湖の湖畔に位置するこの施設は博物館という名ですが、一つの施設ではなく、博物館として民具などを展示する建物、伝統家屋が数軒、食事ができる場所、踊りが観られる場所(毎日講演)、入り口前には民芸品店と、いわゆる博物館というよりは観光施設といった雰囲気かもしれません。民間で運営されている施設だという事も大事なポイントです。2020年に民族共生象徴空間が営業を開始するのに伴い今年度末(2018年3月)で営業を終了します。博物館の開設に至るまでの経緯について、道新の記事があったので引用します。

こころ揺らす

~略~

博物館を開設

こうしたアイヌ民族内部からの批判や観光地としての盛衰の歴史と向き合ってきた白老。それが、民族自身の手で博物館をつくる原動力になったという。壬生さんら地元有志で白老民族文化伝承保存財団を設立し、84年に民間のアイヌ民族博物館を開設。民族の歴史や文化を広く理解してもらおうと立ち上がった。

~略~

2018年(平成30年)1月4日(木曜日) 北海道新聞 [第2社会]26

地域の人たちが民間で博物館を始めたことはすごい事だと思います。民間でアイヌの博物館をしている所は道内に数か所(僕の実家を含め)ありますが、そのほとんどが個人で始めたものです。

白老と観光とアイヌ

こころ揺らす

2020年に民族共生象徴空間がオープンする胆振管内白老町。民芸品販売などを展開する「協業民芸」社長で、かつて白老観光商業協同組合理事長を務めた壬生(みぶ)龍之介さん(89)は、このまちでアイヌ民族と観光の歴史を見つめてきた。「観光は貧しさを克服する一つの手段だったが、これまでの私たちの活動は大きな意義があった」と語る。

アイヌ民族の壬生さんは樺太生まれ。戦後、両親の出身地の北海道に引き上げ、1961年に北海道観光ブームで活況に沸いていた白老に移住した。町内の観光客が56万人に達した64年に会社を設立し、土産物として人気だった木彫りの熊を民芸品店が並ぶ「シラオイコタン」で売り始めた。

「成り金」とも

木彫りは独学で習得し、店頭で実演しながら販売。作品は飛ぶように売れ、「熊成り金」と言われることもあった。コタンは全国からの観光客でにぎわい、民族衣装のアイヌが記念撮影に応じたり、歌や踊りを披露したりしていたという。

しかし、こうした姿がアイヌ民族の内部から「文化を金儲けに利用するな」「アイヌを売り物にするのは恥だ」などと批判の的になった。壬生さんは「当時は、批判はもっともだと思った。だが生きるためには必要だった」と振り返る。

世界的にも観光に携わる先住民族は、批判にさらされることがある。その生活や文化の異質性が観光の対象になる場合が多く、観光客の期待に応えようと、伝統的な姿を強調すればするほど異質さが際立ち、結果的に差別や偏見を助長する側面もあるからだ。

〈白老駅付近にアイヌの部落がある、いかに暑くても疲れても、蝦夷(えぞ)の土を踏んだからにはその珍物を見ざるべからず〉

これは1917年(大正6年)8月、白老町にあったアイヌ民族のコタン(集落)を紹介した全国紙の記事の一説だ。コタンの近くには「案内所」もあり、日常の暮らしぶりが観光の対象になっていたという。

これに対し、一部のアイヌ民族は「差別を助長する」として観光に携わる同族を「観光アイヌ」と蔑視した。昭和初期に活躍した後志管内余市町出身のアイヌ民族の歌人、違星北斗(いぼしほくと)(1901~29年)は作品で激しい批判を繰り返した。

〈芸術の誇りも持たず宗教の厳粛もない アイヌの見せ物〉

~略~(中盤の引用に続く)

2018年(平成30年)1月4日(木曜日) 北海道新聞 [第2社会]26

アイヌ文化を資源とし観光業を営む事にアイヌ内部から批判があるのは現実の話です。

差別、貧困、文化に対する誇り、などが混じり合う問題だからこそ「観光に携わるアイヌ」がいて「批判をするアイヌ」がいるのだと思います。この問題はアイヌ内部だけの事ではないと思っています。貧困が引き起こされた原因、アイヌを差別する人が、ある/いる からこその問題だからです。僕の祖父も見せ物としてアイヌの物語を聞かせたり、踊りを見せたりするために本州を周ったことがあるようですが(祖父は解説役で実際に語ったり踊ったりした立場ではないようですが)、やりたくなかったが仕事としてやった。というような記述が著書に残っています。

アイヌの文化や社会は地域により異なる部分もあり、アイヌがアイヌとして重要なのは、(1)どこの出身で(2)どこのコミュニティに属しているか、だと僕は思っています。同じアイヌ同士でも他地域の事をどうのこうの言いがちですが、お互いの状況は違う事もあるので、相手のやり方/生き方を理解してあげることが大事だと思っています。地域の決定権はその地域にしかないとも思っています。

僕は白老には白老のやり方があって当然で批判をするつもりは毛頭ありません。その上で僕の地元二風谷も負けていないぞ!という気持ちです。

民族共生象徴空間(象徴空間)

2020年4月に開設予定の民族共生象徴空間が白老町に開設されます。

象徴空間には(1)国立アイヌ民族博物館、(2)国立民族共生公園、(3)慰霊施設などが建設される予定です。(3)慰霊施設についてはアイヌ内部からも批判が出ていますが、象徴空間がアイヌにとって有意義な施設になることを切に願っています。

まだ詳しくかけるほどの情報が出てきていませんので、この程度の記述になってしまいました。書けることが増えれば追記していきたいと思います。

関連リンク

(1)国立アイヌ民族博物館のチセコテノミ(地鎮祭)に参加した様子はこちらから。

象徴空間のPR動画はこちらから(僕も一瞬映っています)。撮影時の話はこちらから。[:en]イランカラプテ!キミです!

関連記事⇒道内外のアイヌ関連施設(阿寒湖畔)

僕は二風谷以外の地域の事を細かく説明できるほどの知識も経験もないので、実際に僕が見たものをメインに書いていきます。このシリーズに書かれている事がその地域のすべてではないし、地元の人は違う意見を持っているかもしれません。それを前提に読んでください。これからの記事がそれぞれの地域を知る機会や、観光客増加につながればうれしいと思います。

当ブログ 「道内外のアイヌ関連施設(阿寒)」冒頭の説明より

白老(しらおい)

胆振(いぶり)管内にある白老町は苫小牧(とまこまい)市と登別市の間にある町です。古くからアイヌ文化を観光資源として活用した先駆け的地域です。シラオイという地名はアイヌ語のシラウオイ(アブ(虻)の多い所)に由来するといわれています。

しらおいポロトコタン アイヌ民族博物館

白老でアイヌ文化に触れられる場所といえば「しらおいポロトコタン アイヌ民族博物館」でしょう。ポロト湖の湖畔に位置するこの施設は博物館という名ですが、一つの施設ではなく、博物館として民具などを展示する建物、伝統家屋が数軒、食事ができる場所、踊りが観られる場所(毎日講演)、入り口前には民芸品店と、いわゆる博物館というよりは観光施設といった雰囲気かもしれません。民間で運営されている施設だという事も大事なポイントです。2020年に民族共生象徴空間が営業を開始するのに伴い今年度末(2018年3月)で営業を終了します。博物館の開設に至るまでの経緯について、道新の記事があったので引用します。

こころ揺らす

~略~

博物館を開設

こうしたアイヌ民族内部からの批判や観光地としての盛衰の歴史と向き合ってきた白老。それが、民族自身の手で博物館をつくる原動力になったという。壬生さんら地元有志で白老民族文化伝承保存財団を設立し、84年に民間のアイヌ民族博物館を開設。民族の歴史や文化を広く理解してもらおうと立ち上がった。

~略~

2018年(平成30年)1月4日(木曜日) 北海道新聞 [第2社会]26

地域の人たちが民間で博物館を始めたことはすごい事だと思います。民間でアイヌの博物館をしている所は道内に数か所(僕の実家を含め)ありますが、そのほとんどが個人で始めたものです。

白老と観光とアイヌ

こころ揺らす

2020年に民族共生象徴空間がオープンする胆振管内白老町。民芸品販売などを展開する「協業民芸」社長で、かつて白老観光商業協同組合理事長を務めた壬生(みぶ)龍之介さん(89)は、このまちでアイヌ民族と観光の歴史を見つめてきた。「観光は貧しさを克服する一つの手段だったが、これまでの私たちの活動は大きな意義があった」と語る。

アイヌ民族の壬生さんは樺太生まれ。戦後、両親の出身地の北海道に引き上げ、1961年に北海道観光ブームで活況に沸いていた白老に移住した。町内の観光客が56万人に達した64年に会社を設立し、土産物として人気だった木彫りの熊を民芸品店が並ぶ「シラオイコタン」で売り始めた。

「成り金」とも

木彫りは独学で習得し、店頭で実演しながら販売。作品は飛ぶように売れ、「熊成り金」と言われることもあった。コタンは全国からの観光客でにぎわい、民族衣装のアイヌが記念撮影に応じたり、歌や踊りを披露したりしていたという。

しかし、こうした姿がアイヌ民族の内部から「文化を金儲けに利用するな」「アイヌを売り物にするのは恥だ」などと批判の的になった。壬生さんは「当時は、批判はもっともだと思った。だが生きるためには必要だった」と振り返る。

世界的にも観光に携わる先住民族は、批判にさらされることがある。その生活や文化の異質性が観光の対象になる場合が多く、観光客の期待に応えようと、伝統的な姿を強調すればするほど異質さが際立ち、結果的に差別や偏見を助長する側面もあるからだ。

〈白老駅付近にアイヌの部落がある、いかに暑くても疲れても、蝦夷(えぞ)の土を踏んだからにはその珍物を見ざるべからず〉

これは1917年(大正6年)8月、白老町にあったアイヌ民族のコタン(集落)を紹介した全国紙の記事の一説だ。コタンの近くには「案内所」もあり、日常の暮らしぶりが観光の対象になっていたという。

これに対し、一部のアイヌ民族は「差別を助長する」として観光に携わる同族を「観光アイヌ」と蔑視した。昭和初期に活躍した後志管内余市町出身のアイヌ民族の歌人、違星北斗(いぼしほくと)(1901~29年)は作品で激しい批判を繰り返した。

〈芸術の誇りも持たず宗教の厳粛もない アイヌの見せ物〉

~略~(中盤の引用に続く)

2018年(平成30年)1月4日(木曜日) 北海道新聞 [第2社会]26

アイヌ文化を資源とし観光業を営む事にアイヌ内部から批判があるのは現実の話です。

差別、貧困、文化に対する誇り、などが混じり合う問題だからこそ「観光に携わるアイヌ」がいて「批判をするアイヌ」がいるのだと思います。この問題はアイヌ内部だけの事ではないと思っています。貧困が引き起こされた原因、アイヌを差別する人が、ある/いる からこその問題だからです。僕の祖父も見せ物としてアイヌの物語を聞かせたり、踊りを見せたりするために本州を周ったことがあるようですが(祖父は解説役で実際に語ったり踊ったりした立場ではないようですが)、やりたくなかったが仕事としてやった。というような記述が著書に残っています。

アイヌの文化や社会は地域により異なる部分もあり、アイヌがアイヌとして重要なのは、(1)どこの出身で(2)どこのコミュニティに属しているか、だと僕は思っています。同じアイヌ同士でも他地域の事をどうのこうの言いがちですが、お互いの状況は違う事もあるので、相手のやり方/生き方を理解してあげることが大事だと思っています。地域の決定権はその地域にしかないとも思っています。

僕は白老には白老のやり方があって当然で批判をするつもりは毛頭ありません。それ上で僕の地元二風谷も負けていないぞ!という気持ちです。

民族共生象徴空間(象徴空間)

2020年4月に開設予定の民族共生象徴空間が白老町に開設されます。

象徴空間には(1)国立アイヌ民族博物館、(2)国立民族共生公園、(3)慰霊施設などが建設される予定です。(3)慰霊施設についてはアイヌ内部からも批判が出ていますが、象徴空間がアイヌにとって有意義な施設になることを切に願っています。

まだ詳しくかけるほどの情報が出てきていませんので、この程度の記述になってしまいました。書けることが増えれば追記していきたいと思います。

関連リンク

(1)国立アイヌ民族博物館のチセコテノミ(地鎮祭)に参加した様子はこちらから。

象徴空間のPR動画はこちらから(僕も一瞬映っています)。撮影時の話はこちらから。[:]

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